2024,6月

6月になりましたね。

教会の花壇には、紫陽花が綺麗に咲いています。

この紫陽花、何にも手入れしてないんです。

まあ、雑草や枯れている枝を、先日取り除いたくらいです。

この季節以外は、葉っぱだけだったり、茎だけだったりするんですけれど、

季節になると美しい花を咲かせます。

同じようにバラの花も、なんの手入れもしていないのですが、季節になると大きな美しい花を咲かせます。中には、だれにも見てもらえないような場所で咲いていたりします。

 この花々は、道ゆく方々を楽しませるのですが、本当に喜ばせたいのは神様です。花々は、神様に向かって咲いているのです。

 先日、裏庭の草刈りをしました。

ぼうぼうに生えた雑草と、実をつけないイチヂクの木の枝をバッサバッサと抜いていきました。

でも、抜かなかったものがあるんです。それはどくだみ。

なぜかというと、すごく綺麗な花を咲かせていたからです。もちろん厄介な雑草ではあるので、花が終わってから抜くことにしました。

 私は「雑草」という言葉を使いましたが、植物学者の牧野富太郎氏によると「雑草」という植物はないのだそうです。私たちが「雑草」と呼んでいるすべての植物には名前があるのです。すごいですね。

 そして、花壇や道端に咲いている植物の一つ一つを牧野氏が調べる前から、神様は知っておられるということです。

神様は、同じように私たち一人一人を知ってくださっているのです。

自分は雑草のようだと思っている方がいるかもしれません。あるいはバラのようだと思っている方もあるでしょう。どの花が格が上で、どの花が格下かなんてないんです。人間の全ては神様の愛が注がれているのです。

私たちの喜びって、自分を喜ばせるだけじゃなくて、神様が喜ばれる生き方がもっと大きいのです。

今日も、あなたの上にイエス様の愛と恵が注がれています。

 

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

 マタイによる福音書 6章30節  新改訳聖書2017